書は、白と黒の芸術であり、余白の芸術でもあります。(中略)
字形や線質や両義性も大切ですが、お習字から離れた
書芸術の究極は、やはり、書に顕れた作者の「魂の品格や輝き」です。
「命」とは「魂の顕れ」と同じなのです。
(本書「エッセー風のまえがき 深見東州」より抜粋)
特に、自由自在に気韻生動まで書き分けられるのは、
世界中で東州氏だけだと思います。
「喝」の作品群が、その典型です。
あれも数分間隔で、一気に書き上げたものです。
なぜ、こんなことができるのか。
歴史上では、空海や出口王仁三郎、
そして白隠などがそうだったのです。
前者の二人は、密教の「如」を体得し、
後者は禅の悟りの見性を重ね、
「動中の静」の妙境を会得した人です。
また前者は、あらゆる仏様や芸術家の霊と一体となり、
諸芸や諸事を成し遂げた人々です。
いわゆる「即身成仏」や、
「見性成仏」、「神人合一」の秘技を駆使した、
万能の天才と言えます。
おそらくレオナルド・ダ・ビンチも、
手記を見れば、そうだったことが解ります。
神なるものに導かれ、一体となって創作したのです。
東州氏の書や画や他の芸術も、
空海や王仁三郎の系譜として捉えないと、
全く説明のつかないものです。
(竹中青琥 本書解説より)